都会の駆け込み寺『寺カフェ代官山』。仏様の智慧をヒントに共に悩み、語ることで心の安らぎを共にしたいと願う、お坊さんのお話をお届けします。今年最初のお話しは“人生“という長い旅についてです。
『人生は旅』〜目的地と現在地〜
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、私は先輩などから「人生は旅だ」という言葉をよく聞かされてきました。
山あり谷あり、花咲き乱れる野原あり、旅には色々なことが待ち受けています。
人生もまさに旅ですね。
「旅」には色々な意味が含まれていますが、そのひとつに確かな「目的地」があることを旅というのではないでしょうか。年末年始の様子をテレビで観ていると、多くの人が旅行に出かけたようです。
最近は、手軽に旅行が楽しめるようになり、国内はもとより海外にも多くの人びとが出かけて行きます。
しかし、そのような旅行にも九州なら九州、北海道なら北海道というふうに確かな「目的地」があります。
もし、目的地なしにただ歩き回るのであれば、それは「流浪(るろう)」と言って、決して「旅」とは言えません。
それでは私たちの人生を旅になぞらえるとしたら、人生の目的地はどこでしょう。
私たちはどこへ行こうとしているのでしょうか。
正直なところ、私にはそのことがはっきりしません。
ちょうど行き先の分からないバスに乗っているようなもので、どこを走っているのか、どこへ行こうとしているのかわからない、大変不安な状態のままです。そうした中で、人生の目的地を見いだそうとするのですが、自らの力では未だ見つけ出すことはできないでいます。
また、自ら見つけ出すことが出来なければ、人にでも聞けば良いのですが、「私はどこへ行くのでしょう」などとは、プライドが邪魔して聞けるものではありません。
偉そうに人生は旅だなどとは言っていられないのです。そんな私を見かねて、あなたの人生の目的地は「お浄土(じょうど)」だとお示しくださるのが、阿弥陀さまです。
人生の最大の不安を取り除かんとはたらいてくださるのが、阿弥陀さまのはたらきであり、浄土真宗のみ教えです。
しかし、確かな目的地が見つかったとしても、ただそれだけではそこへは行けないのではないでしょうか。
私は、よく都心に出かけるのですが、その繁華街ではもうどちらが北やら東やら、右も左もわからなくなってしまいます。
また、「十年一昔」とよく言われますが、そうしたところでは一年一昔、いや半年一昔の所もよく見かけます。 行くごとに様子が変わっていて、さらに分からなくなってしまうのです。
私はそんな時、必ず各駅の周辺を描いた案内図を見ることにしています。
先ず目的地とするビルなどをその地図から捜し出します。
しかしそれだけではどうにもなりません。
もう一つしなければならないことがあります。
それはそうした地図には必ず載っている「現在地」を見つけ出すことです。
その地図に目的のビルが載っていても、この現在地が書かれていなければなんの役にも立ちません。
いま私がどこにいるのか、どちらの方向に立っているのか、それが分からなかったらいくら目的地が分かっても、そこには行けないのです。
つまり、そこへ行くための「道」が出てきません。
目的地と現在地を見比べて、はじめて目的地へ行く「道」が明らかになるのです。
私たちの本当の姿を知らしめ、人生の確かな道を示していてくださるのが阿弥陀さまです。
これこそが、※凡夫(ぼんぶ)の歩むべき浄土への道。
それは、凡夫が歩む道ですから、誰もが歩むことのできる道です。
ただ一人で歩む道ではありません。
あらゆる人々と共に、手を携えて支えながら歩む道です。
「人生は旅」、まさに山あり谷ありだからこそ、「南無阿弥陀仏」の名号となって私たちの人生に寄り添っていてくださるのです。
人生にお浄土という確かな目的地をいただき、現在地をしっかりと見据えながら、確かな道を歩む一年でありたいと思います。
注釈
※凡夫(ぼんぶ)とは:欲に囚われてしまっている人。欲から離れられない人。
三浦性暁 みうらしょうきょう
僧侶となって46年、寺院住職23年の経験、また、布教使として30数年の全国での講演活動の実践と学びをもとに、都市開教に取り組んでいます。
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